この日は早く仕事が片付いたので、19時には会社を出ることができた。
このまま池袋で手帳でも物色しようかしらと迷ったが、腹も減っていたのでまっすぐ帰ろうと地下鉄の駅へと向かった。
すっかり見慣れた、いつもの銀色のそして山手線にくらべると一回りも小さい電車に乗ると1駅目で目の前の席が空いた。
おっ。今日はついているな。と座る。
これで最寄り駅までの約20分間は音楽を聴きながらゆったりと過ごせそうだ。
目の前にたっている男性のコートの縫い目をぼんやり眺めながら、今日の出来事など振り返っていると、突然「フォーーーーーーーン」という電車の警笛とともに、進行方向に強烈なGが体にかかった。
急ブレーキだ。
目の前の黒い人の固まりがズザーっと進行方向へと無言で流れていった。
電車が止まる。
黒い固まりは元の位置に無言で戻る。
窓の外をみると、そこはちょうど乗車駅と降車駅の中間の駅のホームが見えた。
ホームにいる人が、ホームと電車の隙間をのぞき込むような動作をしている。
嫌な予感がした。
しばらくすると、“ただ今、人身事故が発生しました。しばらくお待ちください。”と車内アナウンスが流れた。ドアの開く気配はない。
直後、斜め前のおばさんが携帯電話を取り出し、誰かに今の状況を伝えている。
今、この車両の下は・・・もしかして・・・と、考えたくもない妄想が膨らむのを抑えつつ、そのまま座って5分ほど待っていると、電車は当駅止まりでしばらく運行中止である事と、他の交通機関を使ってくれと車内アナウンスが流れ、乗客は1両目の後方出口から全て降ろされてしまった。私は前から2両目だった。
ホームの先頭車両のほうは人が集まっていたが、私はその方向は見ないようにさっさと改札へ向かう。
改札へ向かう階段を上がっていると、男が「いったいどうすりゃいいんだよ!」と独り毒づきながら、すごい勢いで私の横を駆け上がって行った。
一方、地上からは数人の救急隊が担架などかかえ、駆け下りていった。
地上は救急車と消防車が何台も停まっており騒然としていた。
私は iPhone で別の帰宅ルートを確認し、会社を出て2時間後に帰宅。
その後ニュースサイトで、ホームから飛び降りた男性が電車にはねられ死亡した事を知った。
今までは、正直、線路に入って自殺するなんざ迷惑だ!他でやれ!という意見におおむね賛成であったが、今の私はとてもそんな気分になれない。
やるせない。
あの急ブレーキの瞬間、人が死んだのだ。
自ら死を選ぶ人が絶えない事実は知っているが、それをこういう形で目の当たりにすると、それが他人であってもショックだ。
人はあんな硬い冷たい暗いところで死ぬべきではない。
東京では日常茶飯事なのだろうか。
他の乗客は何を思ったのだろうか。
あの毒づいていた男性は誰に怒っていたのだろうか。
こっちに来てから良くも悪くも色々な事を経験している。